5年経って | 雨と権藤

雨と権藤

ひっそり悲喜こもごも書いております・・・

 あの未曾有の大震災から5年が経ちました。

 地震や津波で亡くなられた方々や、震災で人生が変わってしまい、失意のうちに亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げます。


 僕は現実感のないままにあの日をやりすごし、そのままふんわりと
本当に自分があの地獄を体験したのか、たまに自分でも信じられないまま5年目の今日を迎えております。


 僕の生まれ育った街は気仙沼といいます。

 生家の周りは気仙沼を気仙沼たらしめていた水産加工場や
船舶に関係した鉄工場が数多くありました。
○○くんの家も○○さんのお店も道路も関係なく散らばっていたガレキも
もうだいぶ前になくなり、今は土地の嵩上げのために運ばれた赤い盛り土の
ステージの上に復興された真新しい水産加工場などが点在しております。


 僕は震災が起こる3ヶ月前に東京から戻ってまいりました。
8年も地元を離れていたので、その頃は帰省もなんだか小旅行のように思えていたのです。

 街を歩けば思い出はあるものの、行動範囲のせまい高校生までのものでしかなく、魚町の○○さんとか言われてもあまりぴんと来ず

 気仙沼は元々何にもなくてこういう盛り土だけの街なんじゃなかったっけなぁ

と思ってしまうことも今はたまにあります。


 こんなにぽややんとして現実味のない僕ですが、震災当日の記憶はあります。
地獄の最前線だった中央公民館という場所にいた446人の1人でしたから。
正直に言えば記憶はあるにはあるのですが、かなり薄れてきてしまってはいます。
 当時26歳だった僕はすでに31歳。縁があって今の妻と一緒になり、昨年は男の子も設けました。
 5年の歳月の間にはもちろんそんな喜びもあったのですが、
白髪は増え、アゴはたるみ、加齢臭がするようになったりもしました。物覚えも悪くなってるような気もします。
なので、まだ記憶にあるうちにあの震災当日に当時いた場所で起きた事と
思った事を記録しておこうと思い、今キーボードを叩いております。

 僕は家業の建設業に従事してはおりますが、ただ建物が建つ
過程の中でそれに附帯する1つの分野をこなしているものであり、
僕自身の頭の中に、こんな気仙沼が復興するためのランドマーク的な建物をつくろう!とか未来の気仙沼はこうすればもっとよくなる!といった都市計画はまったくありません。ただただ自身の記憶を文章にして残しておくだけです。

 このブログは10年前に僕が学生の頃に始めたものですが、
僕の記憶が残っている媒体として一番ウェイトが大きいものです。
アルバムも何もかも流されちゃいましたしね。
学生時代の恋愛事情とかサークル、部活などのプライベートを何も
詳しく書いてはいませんが、その時の心情はわりと正直に書いて
あるもんだなぁと思い、たまに見返してみたくなる日記のようなものではあります。

 震災が自分のターニングポイントだったとはあまり思いませんが、
とにかく記憶にあるうちにここに書き記してみます。