無題 | 雨と権藤

雨と権藤

ひっそり悲喜こもごも書いております・・・

 3月11日。

 朝から空は薄く曇り、寒々しい一日だった覚えがあります。
 気仙沼に戻り、3ヶ月。ベテランの職人さんについて家業の
修行を始め、わからないながらも様々な現場を見回っていました。


 午後から市内の体育館の改修工事現場をの状況を確認しに行き、
会社に戻り、車から降りた途端に強い横揺れが始まりました。
スケートボードの上に乗って、それをそのまま掴まれて強く何度も
揺すぶられるような足元からひっくり返されるような揺れ方だったのを覚えています。


 僕の会社は沿岸から離れた内陸部にあるのですが、
新城沖とも呼ばれています。小高い丘を背に控えているのですが、
昔はその丘から見下ろすと沖を見ているように一面の沼地だった
ので、そう呼ばれるようになったとも、また遠い昔には
その一帯まで太平洋が迫っていたからだとも聞いたことがあります。
実際、震災後の今でこそ様々な建物が立ち並ぶようになりましたが、
震災以前は田んぼが目立ち、地面を掘削すると水路に当たることも
あり、地盤が弱い土地です。だからでしょう、電信柱はメトロノームのように大きく揺れていました。

自分ひとりが揺られている感覚以上にその様を見て
これは尋常じゃないなと思わされたのです。
とっさに会社の中が心配になり、玄関の引き戸を乱暴に開けて
2階の事務所に駆け上がりました。
事務室前の小さいながらも応接コーナーの長机が左右に大きく踊って、
海の上のピアニストだかタイタニックだかで観た人々が交差しながら
ダンスを踊るシーンをふと思い出しました。

事務室に向かって
『大丈夫すかやー?』
と声をかけると母が
『いいからこっちに来るんすな!』
と大声で返されたような気がします。その時に揺れが治まり、
事務所には4人の社員がいたのですが二言三言、話しをして
多少落ち着いたのです。
しかしまた揺れの長いこと長いこと。2・3分は揺れていたん
ではないでしょうか。
別に1時間も揺れているように感じられたワケではないですが、
只事ではないなと思わされるには充分な時間でした。


 母に言われたのか、自分で言い出したのかは覚えていませんが、
海に近い実家にいる姉達は大丈夫だろうかという話になりました。
嫁ぎ先の富山県から幼子2人を連れて帰省していたのです。
当日は父が県内陸部に出張しており、姉達を見に行けるのは僕しか
おりませんでしたので、すぐに向かうことにしました。
これが辛く苦しい2日間の始まりとなりました。

 車に飛び乗り、カーステをEL&P(だったような・・)から
AMラジオに切り替えて会社を出発しました。僕は山手方向から
沿岸部に向かう形になりましたが、対向車線はもうドえらい渋滞で
信号も停電のために既に機能していませんでした。
中学高校と通った通学路を思い出しながら
なるべく空いてそうな道を走りました。
混み合いそうな交差点はなるべく避けて走ったのですが、
渋滞の中でも対向車線のドライバーの方が右折時に譲って
くれたりして、その時はありがたいくらいにしか思っていなかったの
ですが、今にして思えばこんな非常時なのに人ってのは
本当に偉いモンだなぁと思います。

 向かう車の中で聴く津波警報は最初は高さ3mと言っていたものが
5mになり、6m、10mになった気もしますが、
なんにせよンなアホなくらいに考えていました。

 ともあれ沿岸に向かう道は空いていたこともあって
通常時よりスムーズに実家に戻れたような気もします。
実家の庭先に乱暴に車を停めて家の中に飛び込むと
姉も甥と姪もおりませんでした。
神棚のものやタンスは倒れ、こりゃあ今夜は片付け大変だな
くらいにその時は思ったのです。
二度と実家に戻れなくなるとはもちろん思ってもみませんでした。
姉達は近くの中央公民館に避難したんだろうと思い、そっちを
観に行こうとしました。実家から目と鼻の先です。
外に出てふと犬小屋を見やると、ぬいぐるみのようなウチの犬も
おりませんでした。案外姉ちゃん冷静だな、と感心したんでもないですが思いました。


 中央公民館の方を見ると外階段から上れる2・3階のテラス部分に
大勢の人が集まっていました。
今更っちゃ今更ですが、姉貴に電話してその中にいるのを確認して向かいました。
 姉と甥と姪の顔を見た時は柄にもなくちょっとほっとしたのを
覚えています。1・2階に比べて広くない3階の建屋の中には
近所のお年を召した方たちや近くの保育所の子供たちが
窮屈そうにしていたと思いました。
姉達の無事を確認した僕は安心してちょっと気が大きくなったのか
岸壁の方に行って波がどんなものか観たくなってきました。
姉に止められたような気もしますし、自分でビビっちゃった気もしますが、なんやかんや結局行きませんでした。


 そのままその場に残っているうちに津波の第一波が来たのです。
その時は向かってくるでも襲い掛かるでもなくただ来たというか
現れたというか、細い路地に水が垣間見えたので、建物と建物の
間から水が漏れ出てきたように見えました。漏れた水は止まる
ことなく路地を抜けるとコップから溢れるようにT字路に沿って
拡がって、さらに公民館の前のグラウンドに到達しました。
白っぽい土のグラウンドを黒い水が侵すのが見て
こりゃちょっとヤバいんじゃないのとやっと思えました。
そのうちに海の方から土煙が上がり、車や万丈篭が流れてきました。
フェリーを係留するロープなんかが切れたのか、
沖を漂っていたような覚えもあります。
そうこうしているうちに水嵩はどんどんと増していきました。

うわっうわっ!止まらない止まらない!と思っているうちに
目の前の建物が破壊されていきます。
住宅は土台からさらわれたのか、形を残したまま流されて、
大きな加工場は少しずつ身をむしりとるように一部ずつ流されていきます。
 ハッとして、そういや俺んちは?と思い返して公民館を挟んで海と
反対側の実家を見るためにテラスの反対側に走りました。
その実家が目に入った瞬間です。
伊予柑の皮を剥ぎ取るようにまず一角が崩されてあらわになった
家の内部に波が雪崩れ込んで、一瞬で流されました。
 がっかりするとかショックだったというよりも、
そりゃなくなるよな・・となんか納得してしまいました。
この辺りの心境が5年経った今でも不思議です。
僕が使っていた部屋は元は会社の事務所として使っていた鉄骨造で
1階はほとんど吹き抜けのような作りだったのですが、それも無残に
なくなっていました。
離れという気楽さからか中学高校時代からよく友達が泊まりに来て
夜通し遊んだものでした。
母屋の方を思い出すことはそんなにありませんが、離れのことは今でも
たまに思い出します。それでも残念とか悔しいとか思えないのは
やはり震災後、自分でも何かどうかしたのかな、という気もします。

 その前だったか後だったか、避難していた人々は
あまりに水嵩が増してくるために3階のテラスよりさらに高い屋上に
上がろうということになりました。そのための梯子は
いたずらに登られるのを防ぐためか一番下の段がかなり高く、
ぼくの背丈くらいのところにありました。
 誰かが持ってきた別の小さい梯子をかけ、登るように促していた
のですが、お年寄りや園児達が多く、登れません。そのために
屋上と梯子両脇に男性が付いて、両脇を抱えて屋上への梯子に
手がかかるように抱えあげるようにし、屋上で上がってきた人に
手を差し出すようにしました。
 僕も梯子の両脇に付いて人々を抱えあげました。時間にして1時間
くらいだったでしょうか。
梯子に掴まって自分の体重を預けている手も、人の脇を抱えあげていた
もう片方の手もかなり限界に近かったような気がします。
ダブルアームスープレックスに入る直前のような態勢のまま、
僕の足を抱えててくれた男性が2人くらい?いたと思いますが、
その人たちも寒いのに汗を浮かべてなんだか申し訳ないなと思いました。
もうすぐみんな登り終わるな、と思った頃にふと見覚えのある顔が
現れました。小中学校が一緒だった同級生でした。
二言三言言葉を交わすと彼女は自分が梯子を登るよりより先に


『これをあげて!』

とかなんとか言って藤を編んだケースを差し出しました。中には犬が2匹と猫が1匹入っていました。犬と猫の数は逆だったかもしれません。
体力的には限界に近かったのでその時はちょっとだけ
『このやろう・・』と思いましたが、その後にいろいろと知った今と
なっては彼女は筋金入りの愛犬家、愛猫家として大したモンだと思います。
この同級生Mにはこの2日間、ものすごく精神的に助けられることになるのでした。


 たしか一番最後だったMとそのお母さんが登るのを見届けて下に残って
いた僕達男性陣も屋上に登りました。たしか夕方の4時半に近かった
と思います。
 『いやぁ大変だったっすね』『おつかれさんでした』とかお互い声を
かけあって辛い状況ながらも一段落していました。


 姉達は別の離れた屋上にいたのですが、姿が見えて一安心し、
近所の人達ともいくらか話して気持ちは落ち着きました。Mのとこにも声をかけに行き、

『まいったね、ウチなくなったわー』
『うわぁ、大変だね・・かわいそうに・・』
『なんで他人事やねん!お前んちもだろ』

くらいの軽口を叩きあう余裕が出てきた。こういう時に知ってる
人間がいるってのは本当にありがたいことだと思います。

『いやぁ、家よりコーヒーセットとか東京の友達との写真
入ったフォトフレームの方がショックでかいわ・・』
『それおかしくね?』

とかなんとかいってるうちに分厚いどんよりした鉛色の空
から雪が降ってきました。
5年経った今年の3月11日は麗らかな春の日ですが、
あの日は朝から曇りがちな本当に寒々しい一日でした。
それでも春になりかけていたからか雪はしんしんと降るようなサラッとしたものではなく、水っぽく重い、体にはキツい雪だったような気がします。
 寒さだけではないでしょうが、身を寄せ合って震えていた園児達は
震えていましたが、Mがどこからか渡されたカーテンを持ってきたので、
園児達の上を覆うようにMと掛けてあげました。
親御さんと一緒の子もいればそうでない子もいたのに、
泣かないでじっと耐えていた園児達は自分よりもよっぽど立派なように思えました。

 そうして不安に駆られながらも、ガレキが流れる早さも治まり、
水嵩も増えなくなったのでピークは越えたかもしれないなと思った頃でした。時間は午後5時を過ぎた頃だったと思います。


 遠く沖の方に火が見えました。